2021年1月 - 2

休み明けに私の10倍くらい組織に貢献している同僚と話したのだが、その人が、私から見ると凄まじく手間数がかかっていかにも面倒そうな大仕事の進捗を教えてくれた後で「昔から、ほんの少しずつでもいいから前進している感覚がある作業を地道に進めるのが好きなんだよね、例え仕事じゃなくても、大進歩じゃなくても。やっていて全く苦にならない」というようなことを言っていて、おおーさすが、と思った。

その人は、「一週間あるから少しずつでも進めておきたい」といって、正月休み中も仕事をしていたそうだ。休暇中に仕事をすることの是非自体はさておき、その人らしいなあと思った。私は自主的には絶対にやらないし、誰かにやれと言われてもやれないだろうから、ほんとすごいと思う。


私の10倍組織に貢献している人が、私よりも生まれつきの能力が10倍高いのかというと、おそらくさすがにそんなことはなくて、生まれた時点ではせいぜい1.X倍とか、せいぜい3倍とかぐらいだと思う(もちろん生まれつき10倍以上有能な人も存在するのだろうけど、現実的にそういう人が私と同じ組織にいるとは思えない、もっと他の仕事や生活をしているだろう)。

で、例えばその元々私の3倍の優秀さだった人が、実際には10倍組織に貢献している、その差分が、その人のこれまでの人生での努力、つまりは勤勉さなんだと思う。

30年以上生きていて周りの優秀な人たちを見ていると、人生の中で適切な内容の努力を適切なタイミングで適切な量だけできるかどうか、そしてそれをどれだけ長く継続することができるかが、 ほんとうにほんとうに重要なんだと感じることが多い。正しい努力を正しく続けることができるということ自体が、また能力なんだと。生まれつきの能力はあくまで切片値でしかなくて、その後のグラフの傾きは努力次第。傾きなので、長く生きているとどんどんその影響分が大きくなってくる。

まあ細かいことを言うと、実際にはそもそも努力が可能な環境で生まれ、努力をすればそれなりに報われると自己認識できるような環境下で育ってきたことや、その間その行動と認識を大きく阻害するような事態に見舞われなかったという運や精神力やフィジカルなどの各種パラメーターの影響も多分にあり、そのあたりはほとんど自身では選択し得ない生まれ育ちガチャではあるのだが、その話はここでは一旦置いておく。


私は、元々の能力が高くもない上に、努力をする能力が著しく低く、それを中高での学習や大学受験勉強時に嫌というほど自己認識して知っていたにもかかわらず無視して完全放置し20年近くが経ってしまった人間なので、努力する能力がある人、努力している人、努力することを努力している人など、周囲の人たちが皆とてもまぶしく見える。こういう人たちが世の中をいい方向に変えていくんだろうなあと、遠くからいつも思っている。