2021年6月 - 3

先週だか先々週に、日本が台湾にCOVID-19向けのアストラゼネカ製ワクチンを融通するというニュースがあったが、そのことが確定した日、台湾の同僚から届いた私宛のメールでは同僚のほぼ全員が文頭でそのことに触れていて、皆thank youと言っていた。

いや私は何もしてない、この件はよかったねと思うけど今の政府を支持してないし与党のことも支持してないし…と思いながら、翻って、日本が東日本大震災で台湾の支援を受けた10年前に私は台湾の同僚たちにこんなメールを送っていただろうか、と考えたけど、まあ送ってないよね。考えるまでもなく、一通も送ってない。電話会議のときにコメントくらいはしたかもしれないが。

このあたりが人間性の違いである。


まあ、当時はあまり台湾の同僚と一緒に仕事をしていなかったというのもある。当時の私はひたすら中国の仕事をしていて、毎日中国の同僚とばかりやりとりをしていたんだけど、まあ結局その中でも、個人間の案件ではない今回のような国同士の案件について、私は自分から中国の同僚にお礼を言った記憶がない。

むしろ当時は対日デモ真っ最中で、出張先でイトーヨーカドーが襲撃されたりしていた時期だったので、万一のことを考えて一人ではホテルの外を出歩くなときつく言われていた。顔を見たらこのあたりの中国人ではなく、たぶん日本人だとわかるから、と。私も最初は言いつけを守ってひたすらホテルの中にいたけれど、出張回数を追うごとに政情がよくなっていったこともあって、後半は一人で出歩いていた。と言っても特に行くところはないので、毎日ウォルマートに行くだけだったが。

人通りの激しいウォルマートの入り口のど真ん前に大きな移動式のベッドが置かれていて、そこに体や顔が大規模に変形している人が寝かされていて、そのことで通行人からお金を集めている人がいて、そういう光景を見慣れていなかったので驚いた記憶がある。あのあたり、今はどうなっているのかな。

空港から街までの間の、白黒映像で見た日本の戦後のような風景が続いていたあたりも、10年経った今では全く変わっているんだろうか。市街地以外はストリートビューも整備されていないから調べられないし、私自身はたぶんこの先は一生行くこともないだろうから知りようもないんだけど、あのあたりの情景をたまに思い出す。

何を食べてもかなり辛くて、でも美味しくて、ホテルのレストランよりもそのへんの不衛生なお店の激安ごはんの方がさらに美味しくて、一週間出張していると体からスパイスの香りがするようになってくる、ほとんど毎日薄黄色く視界が曇っていた、あの町の記憶。